創っているのは’写真”である
プライベートでの話。デジタルカメラを使っていると、逃れられないであろう台詞。
「画像データをくれ。」「出来れば、撮影したデータが一式欲しい」
毎度のこととはいえ、ことあるごとに不快なものである。修正・消去簡単で安易な”データ”の集合体程度の認識らしい。私が造っているのは断じて”データ”ではない。”写真”なのだ。その”データ”作りとやらにも知識や経験則に裏打ちされた最低限の技と、必要な手間暇というものがある。実に報われないモノである。経験豊かなプロだとしたら、なおさらだろう。そんなことから、私はある時から基本的にデータを渡すことを一切やめて、一手間かかるがプリントで渡すことにしている。
写真として大切にはされないであろうCDやらDVDで自身の手をかけた”写真”を”データ”として安易に渡す気はさらさらないわけで、ケチだと思うのであれば嗤うが良かろう。
だったら、フィルムで撮れば良い?そういう問題ではない。シゴトの質とその評価のギャップの話である。当然のことながらシゴトの撮影で契約上、画像データ支給を前提にしていたり、物事の進行上どうしてもデータ支給が避けられない場合は別の話。
とはいえ、モノの創り手を自認する人、もしくはそうありたい人ほど、声を大にして言うべきことである。創っているのは’写真”であると。まぁ、大言壮語言いたい放題はこの辺にしておきましょうか。
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